■ ドイツ時計研究〜メーカー編(シュヴァルツヴァルト) ■  
こちらはドイツ時計研究のうち、プフォルツハイムを中心としたシュヴァルツヴァルト(黒い森)の周辺の旧西ドイツのメーカーさんたちについてまとめてみたものです。

メーカー編(グラスヒュッテ)
メーカー編(AlpinaとDugena)
ムーヴメント編(腕時計)
ムーヴメント編(懐中)
ニュルンベルグの卵
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■大戦後に東から脱出してきた人たち
■Uhrenfabrik Kurtz, Glashütter Tradition / Dieter Delecate Uhrenfabrik / Tutima Uhrenfabrik (1945〜)
■Original Lange Uhr (Pforzheim) (1948?〜1990?)

■大戦前からのメーカー
■Junghans (1861〜)
■Lacher & Co., Pforzheim (Laco) (1925〜)
■Deutsche Uhren Rohwerke (DuRoWe) (1932〜1983/2003〜)
■Hanhart (1882〜)
■Pforzheimer Uhren-Rohwerk (PUW)/
 Porta Uhrenfabrik Wehner KG Pforzheim
(1932〜1990)

■プフォルツハイムについて

■ Uhrenfabrik Kurtz, Glashütter Tradition ■
■ Dieter Delecate Uhrenfabrik ■
■ Tutima Uhrenfabrik ■
1945〜1970
1957〜1970
1970〜
グラスヒュッテのUROFA/UFAGを捨てたKurtz博士は戦後ただちに西ドイツで時計会社を復興し、この会社が後のチュチマとなります。

1945年、ソ連軍がグラスヒュッテに至る前にKurtz博士はニュルンベルグに程近いメンメルスドルフで時計事業を再開します。
当初はUROFA/UFAGから持ち出したcal.59クロノグラフの部品・完成品をアメリカ軍に提供しつつ、生産の再開を計画します。
本格的な生産の再開は1951年、本社・工場をブレーメンに移してからになります。
 # いずれも場所的にはシュヴァルツヴァルトから遠いですがとりあえず(笑

この時期に生産されたムーヴメントはUROFAより持ち出した4種(cal.12、cal.121、cal.25、cal.251)に加え、新たに開発したcal.570があります。
ダイアルの銘はKurtz Glashütter TraditionとGlashütter Traditionの2種が存在しているようです。

56年にはKurtz博士は引退し、Kurtz博士と共に西に逃れてきたPohlan氏とDelecate氏が跡を継ぎます。
翌年Pohlan氏はTutimaの銘を復活させ、Delecate氏は販売会社としてスピンアウト、Dieter Delecate Uhrenfabrikを設立します。

1970年にはDelecate氏がクルツ社を逆に買収し、社名をチュチマ(Tutima Uhrenfabrik)としました。
ここにようやくチュチマ社によるTutima銘の時計が世に出ることになりましたが、他にもRoyce銘、Boocie銘のものもあったようです。
Tutima銘ではレマニア5100を用いたクロノグラフを生産し、70年代後半にはレオニダス-ホイヤー-ジンの155に替わって西ドイツ空軍に採用されたのは周知の通りです。

1995年にはKurtz博士の95歳の誕生日を祝ってcal.59クロノグラフの復刻版が発売され、今に至ります。

01/29/04
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■ Original Lange Uhr (Pforzheim) ■ 1948?〜1990?
さて、東西ドイツが分離した直後に会社が東ドイツ政府に接収され、西ドイツに逃れ会社が休眠状態であったと思われがちなランゲ&ゾーネですが、実はプフォルツハイムでエタブリスールをやっていました。

ランゲ一家が東を逃れてきた理由にはいくつかあって、ひとつには会社がソ連の占領下で接収されてしまったということがあげられますが、もうひとつにはランゲ一家が揃ってウラン鉱山での強制労働に連れて行かれそうになった、というのがあるようです。
凄い話です。流石スターリン政権ですね。

Original Lange Uhrの設立はどうも西ドイツに移って間もなくのようですが、具体的には何時なのかは不明です。
商業的には芳しくなく、本格的な復活はLMH(ルクルト、IWC)のサポートのもとでの1990/7/12のLange Uhren GmBHの設立まで待たねばなりませんでした。

エタブリスールとしてどこのムーヴメントを使っていたか、ですが、
A.Schild
ETA
Felsa 5 3/4'''/370
PUW 15xx系
が確認できています。
多分リシュモングループにとって(というかリシュモンジャパンにとって)最も隠しておきたいランゲの過去、でしょうね(笑

10/18/03
01/29/04 追記
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■ Junghans ■ 1925〜
ドイツ最大の時計メーカー。
腕時計よりもむしろ柱時計・置時計の世界で長い歴史と技術を誇っていると思いますが、腕時計でもクォーツ、電波時計などの開発を積極的に行っていることで知られ、イメージ的にセイコーやシチズンに近いカラーのメーカーであるといえましょう。

創業は1861年、Erhard Junghans、Xaver Junghansの兄弟により柱時計の会社として設立されます。
本社は当時も今もシュヴァルツヴァルトのど真ん中のシュランベルグで、シュトゥットガルト、バーゼル、チューリヒ、ストラスブールのちょうど中間のあたり。
ハンハルトの本社グーテンバッハは隣町にあります。

創業からしばらくの間の柱時計・置時計・マントルピース時計の話は置いておきます。
 # というかわからないのでその筋のウェブサイトをお探しください。
彼らの時計は製品・価格ともに優れ、世界各国で大々的な成功を収め、1900年にはアメリカ、イギリス、フランス、スイスの各メーカーを抑え世界最大のメーカーになった、ということのようです。

そうした成功の中、ケースに「世界最大の時計メーカー」の謳い文句を刻みつつ、1903年には懐中時計、1927年には腕時計に進出します。
無論、その間にはWWIやその後のドイツ国内のインフレなどの障害があったワケですが、それをものともしなかったというのはドイツの各メーカーでユンハンス唯1社、というのも凄い話ですね。
ただ、恐慌を経て33年には世界的なブロック経済化の中で部品調達などで流石に行き詰まったようで、ここに完全なマニュファクチュールへの転身となりました。
それでも34年には一気に4種類の腕時計用ムーヴメントを出し、36年には防水ケースまで作ったようです。
大戦中は他の主要メーカーと異なり、軍用時計は製造していなかったようですが、43年には国の指導の下にUROFA、PUWと実質的に合併、一般用の腕時計生産がJUP(Junghans-Urofa-PUW)に統合、44年までの短い間、生産を継続します。

ご多分に漏れず、45年にはすべての設備が灰燼に帰しますが、46年には早くもクロノグラフを含めた開発・生産の計画が立てられ、49年には29年の最盛期を上回る53000人の従業員を雇用し、輸出を再開するほどに回復しました。
cal.88クロノグラフは1956年から生産、ハンハルトのcal.41と共に初期の西ドイツ軍のクロノグラフとして採用されます。
クロノグラフ以外にも、アラームのMinivox(cal.89、1949年)、自動巻き(1951年)、クロノメーター化(cal.82、1952年)、薄型(cal.79、1953年)と幅広くラインアップを広げていきます。
 # 57年のcal.83はかなり画期的だったらしいのですが何がどうなのやら・・・詳しい方、お教えくださいまし。

生産が軌道に乗り始めた1956年、Diehl社(金属部品・電子部品・航空機関連部品大手)に買収され、その後は割とハイテクな方向へ進んでいきます。
 # シチズンみたいです
以下、主なハイテク系の時計の発表の時期です。
- 電子テンプ(ATO chronまたはDato-chron):1967年
- クォーツ(AstrochronまたはAstroquartz):1969年
- 機械式時計の生産中止:1976年
- 電波時計:1985年(市販は1989年)
- ソーラー電池クォーツ:1986年

01/29/04
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■ Lacher & Co., Pforzheim (Laco) ■ 1925〜
ラコ/ラッハってなぜ一緒なの?と思っていたらもともとは1つの会社でした。
 # というかLacoはLacher & Co.の略称ですね。
ラコ/ラッハ/ドゥローヴェの前身、というか大元のLacher & Co., Pforzheimは1925年にFrieda LacherとLudwig Hummelにより設立されます。
当初はスイスよりエボーシュを購入し、地元で製造したケースに入れて売る、いわゆるエタブリスール的なメーカーだったようです。
設立後数年、スイスが時計産業において保護貿易色を強める中で、この創業者2人は役割分担を明確にしていき、1930年にはHummel氏が腕時計製造を中心としたラコ(Laco Uhrenfabrik)を設立、ラッハはLacher家のもとで時計部品の製造に特化、その3年後にはさらにムーヴメントの外販のためにラコの下にドゥローヴェが設立され、3社のグループ体制が確立します。
 # ドゥローヴェについては詳しくはドゥローヴェをご覧下さい。

その後、1936年にラッハはErich Lacher Uhrenfabrikと社名を変更し、完成品の製造と販売に再参入します。ラコ/ラッハはともにドゥローヴェの機械を使って一般向けの腕時計を販売することになります。
また、同時にナチスドイツの軍備の増強とともに国策的に軍用時計の拡大生産が図られ、クロノグラフのUROFA/UFAG/チュチマとハンハルト、大型フリーガーはランゲ、ラコ、ストヴァ、ヴェンペ、IWCと、東西での生産体制の確立がなされます。
そうした軍需産業の一角を占めたラコ/ラッハ/ドゥローヴェのグループは当然のように重点的な爆撃の対象になったようで、大戦末期のプフォルツハイム空爆により、45年2月23日にはラコ/ラッハ/ドゥローヴェの工場が破壊されました。

49年の操業再開以降は戦前と同じグループ体制(ラコとラッハのブランド、ドゥローヴェの機械)となります。
その後、1958年に電子テンプの第1号を発表しますが、翌年の1959年、共同創業者だったHummel氏がラッハグループの株式をTIMEX(当時はダラーウォッチで有名なUSタイム)に売却してしまいます。
 # 事実を知るのは困難でしょうが、仲違いでもしちゃったんでしょうかね。
もう一方の創業者ラッハ家は経営を続けますが、TIMEXに技術だけもってかれて、ラッハとしてはエタブリスールにならざるを得なかったようです。

クォーツショックによりTIMEXの経営がおかしくなると、ラッハは製造部門を切り離され、今度は日本のクォーツ時計の流通・販売へと転進しました。
裏が取れてませんけど、この時ラッハに供給したのはリコーではないかと推測してます。タカノとの関係で。
 # どなたかこの辺の事情の調査にご協力くださいまし。

1983年、かなり唐突にHorst GüntherがTIMEXとラッハ家よりラッハ事業を買収します。
 # どういう勝算があったのか興味津々。
88年にはラコブランドもTIMEXより買い戻し、ラコ/ラッハが復活を遂げ、ラコ銘での時計製造(といってもクォーツのみですが)を再開しました。
後はドゥローヴェ・・・ということでラコ/ラッハグループ75周年記念の2000年、かつての大型フリーガーをかつてのムーヴメントで再現するプロジェクトがスタート、2003年に75本限定で発売されたという経緯になります。

01/29/04
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■ Deutsche Uhren-Rohwerke (DuRoWe) ■ 1932〜1983/2003〜
PUWと並ぶシュヴァルツヴァルトのエボーシュ専業メーカーとしてドゥローヴェ(DuRoWe)が上げられます。
ただ、独立系で、エボーシュ中心から自社ブランドを持つに至ったPUWに対し、ドゥローヴェはラコ/ラッハの子会社としてエボーシュを外販するために設立されたという点に特徴がありましょう。
加えて、TIMEX、タカノ、FHFといったドイツ国外との関係が多いのも特徴ではないかと思います。

ドゥローヴェは1933年、ラコ/ラッハの創業者の一人、Ludwig Hummel氏によりプフォルツハイムに設立されました。
PUWと同じようにスイスの貿易政策に影響を受けたものと思われますが、こちらの場合は自社向けだけではなく他社へもエボーシュの供給を行うべくラコ/ラッハから子会社としてカーヴアウトした形でした。
この時期のムーヴメントは一般向けにはUROFA/UFAGに似たレクタングラーのものが多いように思いますが、有名なのはやはりLaco銘の大型フリーガーB-Uhrでしょうね。
クロノグラフのUROFA/UFAG/チュチマとハンハルトに対し、大型フリーガーはランゲとラコと、東西での生産体制の確立がなされています。
大戦末期にはプフォルツハイムはかなり激しく爆撃され(時計産業があれば当たり前でしょうかね)、45年2月23日にラコ/ラッハ/ドゥローヴェの工場が破壊されました。

大戦後、ご多分に漏れず49年に操業再開となりますが、この時期の話題としてはムーヴメントとその技術がタカノに供給されていた(1957〜1962)のはよく知られているかと思います。
 # 道理で設計が似ているわけだーと思いましたよ。
その後、PUWとともにバッテリー式の開発に注力したようで、PUWと同じく1958年に第1号を発表しています。
ところがなんとその翌年の1959年にHummel氏がTIMEXの前身でダラーウォッチで台頭してきたUSタイムにラコ/ラッハ/ドゥローヴェを売却してしまいます。
ということで、TIMEXの電子テンプはラッハの技術が・・・云々といわれてますけど、より正確にはドゥローヴェの技術であって、それは実はあの第2次大戦中の大型フリーガーを作ってた会社だ、というワケですね。

運命はさらに二転三転します。
電子テンプの技術を吸収しちゃったか、エボーシュまでやってらんねぇよと思ったか、TIMEXの買収後わずか6年の1965年にTIMEXは旧ドゥローヴェを今度はスイス・エボーシュ(Ebauches S.A.)に売却しちゃいます。
スイス・エボーシュ下では独自の機械式・クォーツのムーヴメントに加え、FHF(フォンテンメロン)の下請けとしてFHFのムーヴメントを生産したりもしていました。
 # ムーヴの一覧表はドゥローヴェのウェブサイトに記載があります。
ちなみに例のスイス・エボーシュのホールマークとか星マークとかいわれる刻印についてはドゥローヴェはINTだそうです。
スイス・エボーシュ社がその後どうなったかを考えれば、その後は推して知るべしですが、1983年に生産の中止しています。

それから約20年たって、今度はJörg Schauer氏がブランドを買い取り、新ムーヴ(といっても昔のムーヴの改良でしょうか)を発表し、ドゥローヴェの再興、再々興を目指しているのは周知の通りです。

01/29/04
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■ Hanhart ■ 1882〜
ハンハルト、というと時計好きであれば基本的にはミリタリー・クロノグラフを思い浮かべますが、事業そのものは腕時計よりもストップウォッチなどの計測機器が中心の会社でした。

創業は1882年、Wilhelm Julius Hanhart氏によります。
スイスのディセンホーフェン(でいいのかな?Diessenhofenと書きます)にて創業されますが、20年ほどして国境を渡ってシュヴェニンゲン(Schwenningen)に移り、現在はストップウォッチの製造とR&Dの中心だったグーテンバッハ(Gütenbach)に本社を置いています。
このフライブルグ郊外の地は、プフォルツハイムより南南西に約100km、バーゼルより北東に約100km、シャフハウゼンより北西に約50km、という土地柄なので、もっとマジメに時計ヲタの好きそうな時計を作れるような気がします(笑

ハンハルトは当初、時計の製造装置と宝石加工を主力の事業としていたものの、WWI前後で相当苦労したようで、Monatsuhren(月次時計、ってなんじゃそりゃ、ですが)などに手を出して失敗を繰り返します。
現在につながる事業としては、ストップウォッチについては1924年、腕時計は1930年代になってから製造が開始され、創業者親子の死後、Friedrich Pfaffの手により漸く事業が拡大しはじめたようです。

クロノグラフは大戦中の38年に東のチュチマ(UROFA・UFAG)と並んで軍向けに製造を始めますが、43年には戦争の激化により製造を中断、ハンハルト家と時計師はスイスに逃れたり、兵として戦地に赴いたりして、会社はほぼ壊滅状態に陥ります。
戦後、フランスの占領下でクロノグラフの修理・部品販売から細々と再開しますが、1948年に本格的な復興を果たします。
クロノグラフについてもcal.41を中心にLip経由でフランス軍に納入、後に54年の西ドイツの再軍備に伴い西ドイツ軍にも納入することとなりました。
クロノグラフは62年に製造中止となりますが、これはユンハンスが力をつけてくる中、競争が激化して自社キャリバーの維持が困難になってきていたこと、62年に国軍へのクロノグラフの納入がユンハンス1社に絞られたこと、が理由のようです。
 # ちなみにユンハンスの天下(?)も10年も持たずにかの有名なレオニダス-ホイヤー-ジンの155に取って代わられますね。

1962年のクロノグラフの製造中止以降はクォーツ、デジタルも含めてストップウォッチと目覚まし時計が中心となり、ユンハンスに次いで西ドイツ2番手の時計メーカーとなります。
その後、1997年にはETA/ヴァルジュー7750・7760を用いてcal.40、cal.41の復刻版が発表され、ストップウォッチとならんで再びハンハルトの主力製品となっているようです。

01/29/04
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■ Pforzheimer Uhren-Rohwerk (PUW) ■
■ Porta Uhrenfabrik Wehner KG Pforzheim ■
1932〜1990
1948〜1988
ユンハンスやハンハルトなどかつてのマニュファクチュールを凌いで旧西ドイツの最大のムーヴメントのメーカーです。

創業は1932年、ドレスデン生まれ(!)のRudolf Wehner氏の手によります。
当時の世界経済のトレンドは大恐慌以降のブロック経済としてよく知られる極端な保護貿易下にあったワケで、これが全体主義やら国家社会主義の台頭を招いたりするワケですが、時計産業も例外ではなく、スイスの時計産業も閉鎖的になっていったようです。
 # もっともスイスの時計部品の輸出入規制は20年代から始まってますが。
 # ついでですがナチスが第1党となったのも1932年ですね。そんな時代です。
当時のプフォルツハイムの時計産業はスイスの下請けで部品などを生産したり、スイスから部品を購入して時計を組み立てていたようですが、そんな環境ですから、仕事はこない、部品の輸出規制は厳しくなる、と散々な状況になったようです。
当然部品の製造装置もスイスが強かった上に輸出の規制もあったようですが、そこはそれ、「どうにか」製造装置を入手して、自ら生産に乗り出した、と、これが創業のキッカケのようです。
1933年にはさっそく第1号の自社ムーヴメントが生産されています。

1943年には国の指導の下にUROFA、ユンハンスと実質的に合併、共同生産を始めます。一般にJUP(Junghans-Urofa-PUW)と呼ばれるこの企業連合ではUrofaのcal.613をベースに、後のGUBのcal.60の原型となるムーヴを作っていましたが、1944年には戦火のため生産を中止しています。

第2次世界大戦後の復興がいつごろから本格化したのかについては調べ切れませんでしたが、1948年にPUWムーヴを載せた自社ブランド、Portaが設立されていることから考えて、戦後間もない時期には復興しつつあったことがうかがえます。
このPorta、社名にWehnerとある通りでPUWの子会社としてWehner氏が設立したわけですが、社名の由来はPorta Hercyniae、「黒い森の入り口」というものだそうです。

戦後のPUWの特徴としては廉価な機械式ムーヴの大量生産ということになろうかと思いますが、電磁テンプ式のムーヴメントにかなり注力していたこともあげられましょう。
1958年から生産をはじめ、1968年には完全自社製の電磁テンプ式のムーヴメントを完成させました。

歴史を紐解くとままあることですが、没落の始まりは絶頂期にあったりして、PUWの場合は1971年に最盛期を迎えます。
この年には年間生産個数が230万個に達し、当時スイスを除くヨーロッパで最大のメーカーとなりました。直後、クォーツの普及により打撃をうけることになります。
とはいえ、クォーツの普及を指をくわえて眺めていたワケではなく、74年には自社製クォーツの生産を開始、88年には900万個もの生産個数に達します。

1990年、SMHグループに買収され、以降すっかり骨抜きになり、現在はETAの子会社としてクォーツを中心とした部品の生産を僅かに行うに過ぎないようです。

01/19/04
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■ プフォルツハイムについて ■  
プフォルツハイムという町はそもそもが金属加工・貴金属宝飾の町としてよく知られていて、ホワイトゴールドが発明されたり、ショパールが工房を置いたり、とその筋ではかなり由緒正しい町のようです。
地理的にはいわゆる「黒い森」の北辺にあり、スイスとの国境近く、特にバーゼルやシャフハウゼンからは山ひとつ越えたところという位置にあります。
そんな地理で金属加工という地場産業があったとすれば腕時計製造に関わる企業が出てくるのもごく自然な流れであったといえようかと思います。

この地で宝飾・時計産業が興ったのは1767年まで遡れ、Markgraf Karl Friedrichというひとが孤児院の子供たちに仕事を与えるべく金属加工と時計製造の工場を作ったのが発祥とされています。
その意味ではグラスヒュッテよりも古いことになりますが、時計といっても教会のでっかいのから柱、置、とあるわけで、むしろこちらの方が主力であったようです。

1970年代には西ドイツの時計の実に7割がプフォルツハイムで製造されていたという統計もあり、ユンハンスなどの地場の時計メーカーがクォーツ中心に生産を続けていたことを考えるに、クォーツショック後もそれなりに時計産業は盛んであったことが伺えます。

01/19/04
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