| ■ ドイツ時計研究〜メーカー編(シュヴァルツヴァルト) ■ |   |
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こちらはドイツ時計研究のうち、プフォルツハイムを中心としたシュヴァルツヴァルト(黒い森)の周辺の旧西ドイツのメーカーさんたちについてまとめてみたものです。
メーカー編(グラスヒュッテ)
■大戦後に東から脱出してきた人たち
■大戦前からのメーカー
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| ■ Uhrenfabrik Kurtz, Glashütter Tradition ■ ■ Dieter Delecate Uhrenfabrik ■ ■ Tutima Uhrenfabrik ■ |
1945〜1970 1957〜1970 1970〜 |
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グラスヒュッテのUROFA/UFAGを捨てたKurtz博士は戦後ただちに西ドイツで時計会社を復興し、この会社が後のチュチマとなります。
1945年、ソ連軍がグラスヒュッテに至る前にKurtz博士はニュルンベルグに程近いメンメルスドルフで時計事業を再開します。
この時期に生産されたムーヴメントはUROFAより持ち出した4種(cal.12、cal.121、cal.25、cal.251)に加え、新たに開発したcal.570があります。
56年にはKurtz博士は引退し、Kurtz博士と共に西に逃れてきたPohlan氏とDelecate氏が跡を継ぎます。
1970年にはDelecate氏がクルツ社を逆に買収し、社名をチュチマ(Tutima Uhrenfabrik)としました。
1995年にはKurtz博士の95歳の誕生日を祝ってcal.59クロノグラフの復刻版が発売され、今に至ります。 01/29/04
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| ■ Original Lange Uhr (Pforzheim) ■ | 1948?〜1990? |
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さて、東西ドイツが分離した直後に会社が東ドイツ政府に接収され、西ドイツに逃れ会社が休眠状態であったと思われがちなランゲ&ゾーネですが、実はプフォルツハイムでエタブリスールをやっていました。
ランゲ一家が東を逃れてきた理由にはいくつかあって、ひとつには会社がソ連の占領下で接収されてしまったということがあげられますが、もうひとつにはランゲ一家が揃ってウラン鉱山での強制労働に連れて行かれそうになった、というのがあるようです。
Original Lange Uhrの設立はどうも西ドイツに移って間もなくのようですが、具体的には何時なのかは不明です。
エタブリスールとしてどこのムーヴメントを使っていたか、ですが、
10/18/03
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| ■ Junghans ■ | 1925〜 |
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ドイツ最大の時計メーカー。
腕時計よりもむしろ柱時計・置時計の世界で長い歴史と技術を誇っていると思いますが、腕時計でもクォーツ、電波時計などの開発を積極的に行っていることで知られ、イメージ的にセイコーやシチズンに近いカラーのメーカーであるといえましょう。 創業は1861年、Erhard Junghans、Xaver Junghansの兄弟により柱時計の会社として設立されます。
創業からしばらくの間の柱時計・置時計・マントルピース時計の話は置いておきます。
そうした成功の中、ケースに「世界最大の時計メーカー」の謳い文句を刻みつつ、1903年には懐中時計、1927年には腕時計に進出します。
ご多分に漏れず、45年にはすべての設備が灰燼に帰しますが、46年には早くもクロノグラフを含めた開発・生産の計画が立てられ、49年には29年の最盛期を上回る53000人の従業員を雇用し、輸出を再開するほどに回復しました。
生産が軌道に乗り始めた1956年、Diehl社(金属部品・電子部品・航空機関連部品大手)に買収され、その後は割とハイテクな方向へ進んでいきます。
01/29/04
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| ■ Lacher & Co., Pforzheim (Laco) ■ | 1925〜 |
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ラコ/ラッハってなぜ一緒なの?と思っていたらもともとは1つの会社でした。
# というかLacoはLacher & Co.の略称ですね。 ラコ/ラッハ/ドゥローヴェの前身、というか大元のLacher & Co., Pforzheimは1925年にFrieda LacherとLudwig Hummelにより設立されます。 当初はスイスよりエボーシュを購入し、地元で製造したケースに入れて売る、いわゆるエタブリスール的なメーカーだったようです。 設立後数年、スイスが時計産業において保護貿易色を強める中で、この創業者2人は役割分担を明確にしていき、1930年にはHummel氏が腕時計製造を中心としたラコ(Laco Uhrenfabrik)を設立、ラッハはLacher家のもとで時計部品の製造に特化、その3年後にはさらにムーヴメントの外販のためにラコの下にドゥローヴェが設立され、3社のグループ体制が確立します。 # ドゥローヴェについては詳しくはドゥローヴェをご覧下さい。 その後、1936年にラッハはErich Lacher Uhrenfabrikと社名を変更し、完成品の製造と販売に再参入します。ラコ/ラッハはともにドゥローヴェの機械を使って一般向けの腕時計を販売することになります。
49年の操業再開以降は戦前と同じグループ体制(ラコとラッハのブランド、ドゥローヴェの機械)となります。
クォーツショックによりTIMEXの経営がおかしくなると、ラッハは製造部門を切り離され、今度は日本のクォーツ時計の流通・販売へと転進しました。
1983年、かなり唐突にHorst GüntherがTIMEXとラッハ家よりラッハ事業を買収します。
01/29/04
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| ■ Deutsche Uhren-Rohwerke (DuRoWe) ■ | 1932〜1983/2003〜 |
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PUWと並ぶシュヴァルツヴァルトのエボーシュ専業メーカーとしてドゥローヴェ(DuRoWe)が上げられます。
ただ、独立系で、エボーシュ中心から自社ブランドを持つに至ったPUWに対し、ドゥローヴェはラコ/ラッハの子会社としてエボーシュを外販するために設立されたという点に特徴がありましょう。 加えて、TIMEX、タカノ、FHFといったドイツ国外との関係が多いのも特徴ではないかと思います。 ドゥローヴェは1933年、ラコ/ラッハの創業者の一人、Ludwig Hummel氏によりプフォルツハイムに設立されました。
大戦後、ご多分に漏れず49年に操業再開となりますが、この時期の話題としてはムーヴメントとその技術がタカノに供給されていた(1957〜1962)のはよく知られているかと思います。
運命はさらに二転三転します。
それから約20年たって、今度はJörg Schauer氏がブランドを買い取り、新ムーヴ(といっても昔のムーヴの改良でしょうか)を発表し、ドゥローヴェの再興、再々興を目指しているのは周知の通りです。 01/29/04
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| ■ Hanhart ■ | 1882〜 |
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ハンハルト、というと時計好きであれば基本的にはミリタリー・クロノグラフを思い浮かべますが、事業そのものは腕時計よりもストップウォッチなどの計測機器が中心の会社でした。
創業は1882年、Wilhelm Julius Hanhart氏によります。
ハンハルトは当初、時計の製造装置と宝石加工を主力の事業としていたものの、WWI前後で相当苦労したようで、Monatsuhren(月次時計、ってなんじゃそりゃ、ですが)などに手を出して失敗を繰り返します。
クロノグラフは大戦中の38年に東のチュチマ(UROFA・UFAG)と並んで軍向けに製造を始めますが、43年には戦争の激化により製造を中断、ハンハルト家と時計師はスイスに逃れたり、兵として戦地に赴いたりして、会社はほぼ壊滅状態に陥ります。
1962年のクロノグラフの製造中止以降はクォーツ、デジタルも含めてストップウォッチと目覚まし時計が中心となり、ユンハンスに次いで西ドイツ2番手の時計メーカーとなります。
01/29/04
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| ■ Pforzheimer Uhren-Rohwerk (PUW) ■ ■ Porta Uhrenfabrik Wehner KG Pforzheim ■ |
1932〜1990 1948〜1988 |
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ユンハンスやハンハルトなどかつてのマニュファクチュールを凌いで旧西ドイツの最大のムーヴメントのメーカーです。
創業は1932年、ドレスデン生まれ(!)のRudolf Wehner氏の手によります。
1943年には国の指導の下にUROFA、ユンハンスと実質的に合併、共同生産を始めます。一般にJUP(Junghans-Urofa-PUW)と呼ばれるこの企業連合ではUrofaのcal.613をベースに、後のGUBのcal.60の原型となるムーヴを作っていましたが、1944年には戦火のため生産を中止しています。 第2次世界大戦後の復興がいつごろから本格化したのかについては調べ切れませんでしたが、1948年にPUWムーヴを載せた自社ブランド、Portaが設立されていることから考えて、戦後間もない時期には復興しつつあったことがうかがえます。
戦後のPUWの特徴としては廉価な機械式ムーヴの大量生産ということになろうかと思いますが、電磁テンプ式のムーヴメントにかなり注力していたこともあげられましょう。
歴史を紐解くとままあることですが、没落の始まりは絶頂期にあったりして、PUWの場合は1971年に最盛期を迎えます。
1990年、SMHグループに買収され、以降すっかり骨抜きになり、現在はETAの子会社としてクォーツを中心とした部品の生産を僅かに行うに過ぎないようです。 01/19/04
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| ■ プフォルツハイムについて ■ |   |
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プフォルツハイムという町はそもそもが金属加工・貴金属宝飾の町としてよく知られていて、ホワイトゴールドが発明されたり、ショパールが工房を置いたり、とその筋ではかなり由緒正しい町のようです。
地理的にはいわゆる「黒い森」の北辺にあり、スイスとの国境近く、特にバーゼルやシャフハウゼンからは山ひとつ越えたところという位置にあります。 そんな地理で金属加工という地場産業があったとすれば腕時計製造に関わる企業が出てくるのもごく自然な流れであったといえようかと思います。 この地で宝飾・時計産業が興ったのは1767年まで遡れ、Markgraf Karl Friedrichというひとが孤児院の子供たちに仕事を与えるべく金属加工と時計製造の工場を作ったのが発祥とされています。
1970年代には西ドイツの時計の実に7割がプフォルツハイムで製造されていたという統計もあり、ユンハンスなどの地場の時計メーカーがクォーツ中心に生産を続けていたことを考えるに、クォーツショック後もそれなりに時計産業は盛んであったことが伺えます。 01/19/04
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