■ ドイツ時計研究〜メーカー編(グラスヒュッテ) ■  
こちらはドイツ時計研究のうち、グラスヒュッテに存在していたメーカーさんたちについてまとめてみたものです。ややこしくていかん。

メーカー編(シュヴァルツヴァルト)
メーカー編(AlpinaとDugena)
ムーヴメント編(腕時計)
ムーヴメント編(懐中)
ニュルンベルグの卵
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■東西ドイツ統一後の新興メーカー
■Sächsische Uhrentechnologie GmbH (SUG) (1999〜)
■Bruno Söhnle Glashütte (1997〜)

■大戦と冷戦の時代
■VEB Glashütter Uhrenbetriebe (GUB) (1951〜1994)
■Lange VEB (1948〜1951)
■Tutima Glashütte (1931〜1945)
■Uhren-Rohwerke-Fabrik Glashütte AG (UROFA) /
 Glashütter Uhrenfabrik AG (UFAG)
(1927〜1951)

■いわゆるシステム・グラスヒュッテなメーカーたち
■Lange Uhren Glashütte i. Sa. (1909〜1922)
■Präcisions-Uhrenfabrik Alpina (Alpina Glahütte) (1909〜1922) /
 Alpina Deutsche Uhrmacher-Genossenschaft GmbH (DUGENA) (1917〜
■Nomos-Uhr-Gesellschaft (1906〜1910)
■Otto Estler (1920〜1951)

■懐中の時代
■Mühle-Glashütte GmbH Nautische Instrumente & Feinmechanik (1869〜1972, 1994〜)
■Präzisions-Uhrenfabrik Aktiengesellschaft AG /
 Deutsche Präzisions-Uhren-Fabrik Glashütte (DPUG)
(1890〜1922)
■Dürrstein & Company Dresden / Uhrenfabrik Union (1874〜1926)
■B. Junge & Söhne, Glashütte bei Dresden (1881〜1897)
■A. Schneider Glashütte bei Dresden/Sachsen (1851〜1878)
■M. Grossmann Glashütte (1854〜1885)
■J. Assmann/Glashütte i.SA (1852〜1927)
■A. Lange b/ Dresden / A. Lange & Söhne Glashütte (1845〜1948)

■グラスヒュッテについて

■ Sächsische Uhrentechnologie GmbH ■ 1999〜
ケースの製造会社、SUGは1999年、Ronald Boldt博士により創業されました。
このBoldt氏はかつてはGUBの製造責任者だったそうで、GO・ウニオンの現社長Heinz W. Pfeifer氏がGOを買収した時も品質管理・ケース事業の部長に任命したそうですが、結果的にGOがケースの自社製造を止めることになり、それに伴って独立することにしたそうです。
で、独立する際に出資をしたのがジンのLothar Schmidt氏、プフォルツハイムでケース製造に携わるWalter Fricker氏ということで、現在のSUGの主要顧客はジン、ジャッケ・エトワール、ミューレとなっていますが、これはその出資関係によるものといえましょう。
 # Fricker氏はJE、ジン、シャウアー、テンプション、ストヴァのケースを製造しています。

さて社名のSUGはSUGの略称が広く知られていますが、正式名として言及されるのはSächsische Uhrenindustrie GlashütteとSächsische Uhrentechnologie GmbHとの2つがあり、さてどちらが正しいのやら、と思っていたら、出資者はみな後者の表記を用いているので後者の方が正しいようですね。

2002年の洪水ではノモスと並んでグラスヒュッテ内でも最も被害が大きかったようで、すべての機器を買い換えることになったそうですが、保険がおりたおかげで操業再開は早かったようです。

01/22/04
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■ Bruno Söhnle Glashütte ■ 1997〜
グラスヒュッテの時計メーカーといえばどこもかしこも機械にそうとうコダワリのあるメーカーばかり、という印象があろうかと思いますが、ここでひとつ例外を。

Bruno Söhnleは"Uhrenatelier"を称して女性向けのラインアップに力を入れている若いメーカーで、シンプルでシャープなデザインを売りとしているようです。
ムーヴは主にスイスのRonda社のクォーツを用いて、かなり低めの価格設定となってますから、イメージとしてはALBAとかLUKIAとかそんな印象です。

Bruno Söhnle自身はグラスヒュッテにおいて時計のデザイナー歴40年以上、新しい工房はJulius Assmannがかつて使っていた建物、という具合ですし、82年よりGUB、97年よりミューレとパートナーとしてやっているとのことで、グラスヒュッテ内ではかなりの存在かと思われます。
# なんとなくですけど、それでミューレっぽいデザインが散見されるんでしょうね。
# パノラマデイトのモデルなんかミューレのトイトニアそっくり(笑

まあでもこういコンセプトだとグラスヒュッテであるとかそうでないとかはあまり関係なさそうですね(笑

01/10/03
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■ VEB Glashütter Uhrenbetriebe (GUB) ■ 1951〜1994
1951年から1994年まで存在したGUBは戦後東ドイツの歴史を体現するグラスヒュッテ最大の時計メーカーです。
# とはいってもその前はランゲなどから、その後はグラスヒュッテへと繋がる長い歴史があるわけですけど。

設立の経緯は終戦後、1949年の東西ドイツ分裂、1950年の総選挙で共産主義国家が設立された直後で、50年7月に
 - Lange VEB Glashütte (ランゲ&ゾーネ)
 - UROFA/UFAG
 - Mestechnik(ミューレの前身?)
 - Feintechnik
 - Otto Estler(システム・グラスヒュッテな懐中屋さん)
 - Liwos (Lindig NachfahrenとC. H. Wolf & Söhne、部品)
の7工場統合により新会社スタート、となっています。

その後の変遷は歴史編に可能な限り詳述しますが、共産圏最高峰の時計製造メーカーとして営々と脈々と粛々と、時には時代の流れに逆行して、発展していきます。
ただカメラなどにもいえることですが共産圏では年を追う毎に質が悪くなっていくように見えるのが寂しい限りです。
多分ですが、品質的にはピークは50年代後半ではないかと思います。
ただ共産圏だけあって生産量は1個単位までキッチリ記録されているのが驚異です。
品質と逆の傾向ですが、生産量からすると60年代後半〜80年代が安定して多いようです。

89年にベルリンの壁が崩壊して東西ドイツが統合されましたが、これを追う形で1990年に民営化、Glashütter Uhrenbetriebe GmbHとなりました。GUBはGUBですけども。
この直後の2年ほどETA2824を用いての製造に切り替わってます。新キャリバー10-30の開発をしていたとはいえ、この2年間の混乱とそこに巻き込まれた人々の喜怒哀楽は想像するに余りあります。
# 映画とか小説になったりすると面白そうですね。

1994年、ランゲとミューレの復興が主因かKal.10-30の開発が主因かは不明ですが(いずれ調べたいところですが)、グラスヒュッテオリジナルへ名称変更、スウォッチグループの買収を経て現在に至っているのはよく知られている通りです。

01/05/03
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■ Lange VEB ■ 1948〜1951
第2次世界大戦の終結の間際、ドレスデン〜グラスヒュッテ一帯はソ連軍により占領されましたが、その際、ランゲ家は捕虜になることを恐れ、西側に脱出しました。
ランゲの工場はこの段階で接収されているのですが、戦後の統治体制が東西冷戦の構図に変化していく中、1948年には当主がいないまま名実共に国有化されました。それがこのLange VEBです。
その意味では、Lange VEBはA. Lange & Söhneの後継企業にして、ランゲの歴史の中でも唯一当主のランゲ家が存在していなかったランゲ、といえます。

1950年の共産主義国家の成立に伴い、1951年にGUBができますが、Lange VEBはUROFA・UFAGと共にGUBの中核となりました。
Lange VEBは戦時中のALSをそのまま引継ぎ、cal.48系とcal.28系を生産していますが、これもまたそのままGUBに引き継がれ、しばらくの間、生産されています。

というワケでグラスヒュッテなコレクターはALS銘、Lange VEB銘、GUB銘のパワリザ付きcal.48とcal.28なぞ揃えに行くようですが、Lange VEB銘のものは少ないこともあり、大変人気のようです。

08/29/04
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■ Tutima Glashütte ■ 1931〜1945
チュチマはなんというか自分が書くまでもなく有名ななかひろ時計館のチュチマ・レポートでも見てください、って感じですが、まあとりあえず。
若干の補足ができるかと思いますし。

戦間期〜大戦中にグラスヒュッテに存在していたチュチマはあくまで「ブランドネーム」としての存在であり、会社名ではありません。
製造はKurtz博士を中心としたUROFA/UFAGで、このうち自社で品質管理を徹底したものをチュチマ・ブランドとして売り出したものでした。
チュチマ銘のものは1931年以降に市場に出回ります。

チュチマ銘で知られるものとしては、クロノグラフのcal.59が特に有名で、現在も復刻版が出ているほか、Poljotからコピー品が未だに出回ってます。
 # Poljotのハンハルトとチュチマのコピー品はebayで250〜300ドルが相場のようです
それ以外にはレクタングラータイプのcal.522、cal.548が多いようです。

Kurtz博士の脱出とソ連軍による占領によりグラスヒュッテのチュチマは自然消滅、1945年以降のUROFA/UFAGではチュチマ銘の時計は製造されていません。
ただ、ソ連軍によりソ連に持ち帰られた部品にはチュチマ銘のダイアルが含まれており、チュチマ銘のcal.59が極少数生産されたようです。
 # 酷いものになると石が先になくなって、石の数が極端に少ないチュチマ銘のものがあるようですね(笑

01/29/04
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■ Uhren-Rohwerke-Fabrik Glashütte AG (UROFA) ■
■ Glashütter Uhrenfabrik AG (UFAG)■
1927〜1951
UROFA/UFAGは現在のグラスヒュッテオリジナル、ウニオンの前身となるメーカーであり(GUBを間に挟みますが)、ランゲ、GUBとともにグラスヒュッテの歴史を語る上で最も重要な会社の1社といえます。

1926年末、WWI後のハイパーインフレにより休眠状態に陥っていたDeutsche Präzisions-Uhren-Fabrik Glashütte (DPUG)が法的にも完全に倒産します。
この時、自分の会社を持っていたErnst Kurtz博士が救済に乗り出し、同社を腕時計メーカーに再生すべく、1927年にUROFA/UFAGに会社組織を再編させた、というのが設立の経緯です。
両社の分担はUROFAがムーヴメントの製造、UFAGがケース、竜頭など外装部品の製造という形になっており、間もなく設立されるチュチマが流通・販売を受け持つことになります。

腕時計の生産は1929年より始まり、技術主任がEmil JudithからRobert Henziに代わった1934年より大量生産時代に入ります。
cal.522/511、cal.542、cal.58などのムーヴメントが34年より大量に製造されたのは、シュヴァルツヴァルトでもそうだったようにスイスの保護貿易化およびナチスの軍需産業強化政策が大きく影響していますが、グラスヒュッテの腕時計の技術がようやく他国に追いついた、とも見れるかと思います。
UROFA/UFAGの機械を載せたメーカーとしては自社のチュチマのほか、ZentRaやAnkra、Alpinaなどが知られています。

かの有名なクロノグラフ、cal.59は39年からの製造となりますが、背景には38年の国軍より納入業者の指定を受け、クロノグラフの設計・製造を命ぜられたことがあるようです。
また、弟のWalter Kurtz氏が空軍でテストパイロットを務めていたことも関連しているようですね。

1945年のソ連の占領によりクロノグラフの製造設備がソ連軍により持ち去られ、KirowとPoljotにより1970年代までcal.59の製造が続けられたことはよく知られているかと思います。
その際Kurtz博士はどうしたのかというと、ソ連軍による占領前にグラスヒュッテからメンメルスドルフに逃れ、戦後は持ち出したcal.59の部品その他をアメリカに提供、後にチュチマを再興しクロノグラフを西ドイツ軍に納入するまでになります。
 # 強烈な反共主義、自由主義者であったことが窺い知れますね(笑

さて、Kurtz氏の脱出とソ連軍による設備の接収により再び壊滅状態となったUROFA/UFAGですが、残ったPaul Löwe氏により1945年中には製造を再開します。
このLöwe氏、アスマンで修行、時計師として働いた後、DPUG〜UROFA/UFAGと勤め上げた生粋のグラスヒュッテの時計師で、戦後のUROFA/UFAGを支えた中心的人物です。後のGUBの基礎を築き上げたといえましょう。
UROFA/UFAGは1950年の共産主義政権と東ドイツの成立後、ランゲ他とともにGUBに再編されていきます。

01/29/04
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■ Lange Uhren Glashütte i. Sa. ■ 1924〜1945
ランゲの腕時計というと、古くは女性用の小型の懐中のムーヴメントを用いていましたが、1920年代に腕時計が大きく勃興するにあたり、別会社を立ち上げています。
それがこのLange Uhren Glashütteで、スイスのMontres Atlus S.A.の機械をベースにランゲとUROFAで共同で生産にあたりました。
後のUROFAの腕時計のベースとなったものと考えてよいかと思います。

このメーカーからの腕時計には複数の銘があり、Delcona銘またはLange-Uhr銘のものが一般的のようです。

08/29/04
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■ Präcisions-Uhrenfabrik Alpina (Alpina Glashütte) ■
■ Alpina Deutsche Uhrmacher-Genossenschaft GmbH (Dugena) ■
1909〜1922
1917〜
グラスヒュッテの枠で括るには適当ではなくなったので、独立したページをつくりました。
こちらへどうぞ。
ドイツ時計研究 メーカー編(AlpinaとDugena)

10/15/06
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■ Nomos-Uhr-Gesellschaft ■ 1906〜1910
第1次世界大戦前に僅か4年間だけ存在していたメーカーで、時代的にほぼ当たり前といえそうですが、懐中時計のみの製造となっているようです。
現在のノモスとは直接の関係はないようです。

1906年にドレスデンでGuido Müllerにより設立されたNomos-Uhr-Gesellschaftはスイスから完成されたムーヴメントを輸入、グラスヒュッテの刻印を押して販売していたようです。当時の時計産業は国策であったとか色々あったんでしょうが、グラスヒュッテの刻印は販売戦略上重要だったようです。
1910年にはALSとの裁判に負けて広告以外ではグラスヒュッテの名称を使えなくなったようで、そこでこの会社の歴史は終わっています。

01/05/03
10/15/06 加筆
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■ Otto Estler ■ 1920〜1951
Otto Estlerは第1次世界大戦の終戦と共に創業されたメーカーで、システム・グラスヒュッテでも比較的高級品を製造していたことで知られます。
鐘ウニオンと同様、一部グラスヒュッテ製の部品、一部スイス製の部品を用いていました。
グラスヒュッテ製部品は主に脱進機まわりとダイアル、針、それ以外はスイス製ということで、この使い分けもほぼ鐘ウニオンと同じかと思います。

第2次世界大戦前〜の腕時計への移行期にどういう動きをしていたかはよくわからないのですが、1951年に複数のメーカーが統合されGUBが設立される際に、Estlerも同様にGUBに統合されたことを考えると、そこそこの生産規模を有していたものと考えてよいように思います。

08/29/03
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■ Mühle-Glashütte GmbH Nautische Instrumente & Feinmechanik ■ 1869〜1972, 1994〜
ランゲ、グラスヒュッテオリジナル、ウニオン、ノモスに次ぐグラスヒュッテの時計メーカーですね。「次ぐ」なんて書いちゃいましたが、序列があるわけではありません。なんとなく気分的なものです(謎

創業は1869年、初代のRobert Mühleが息子のPaul Mühle氏と共にRobert Mühle & Sohnを設立したことから始まります。
基本的には精密機器と計測器を作っていて、時計メーカーなどを主要顧客にしていたようです。
こういう話を聞くとなんだか現在の半導体メーカーと半導体製造装置メーカーや半導体部材メーカーの関係を想い起こさせますね・・・半導体製造装置・部材は精密機器メーカーの独壇場ですし。

そして1945年、終戦と同時にALS(ランゲ)やUFAG、UROFAなどと同じくソ連の占領下で設備を接収されてしまうわけですが、その翌年には3代目のHans Mühle氏がHans Mühle Glashütteという社名で再興、計測機器とLauf- und Hemmwerke?を手掛けていました。
 (02.15.03追記:Hemmwerkで脱進機を指すようです)
 (08.29.04追記:色々見ていると輪列全般をやっていたということのようです)
1970年の4代目のHans-Jürgen Mühle(現社長)に引き継がれましたが、その直後の1972年にはGUBに吸収される形で国営化されてしまいます。
1980年にはGUBの社内ベンチャー・・・共産主義国家でこういう概念があるのかどうかわからないし、そもそも共産主義国家時代の会社関係のシステムがどうなっていたかよくわからないのですが、とにかくMühle家がGUBの内部組織ながらもMühle Glashütteがもともとやっていた仕事を専属のものとして取り返したようです。

90年の東西ドイツ統一とそれに伴うGUBの民営化で、Hans-Jürgen Mühle氏はミューレのブランドと共に独立する必要性を感じたようで、94年にMühle Glashütte GmbHを再再興し、今に至っています。

2006年からはMercedes Benzと共同し、Mercedes Benzのロゴをあしらった時計を提供しています。パネライとフェラーリみたいなものでしょうか。

01/10/03
02/15/03 加筆
08/29/04 加筆
10/15/06 加筆
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■ Präzisions-Uhrenfabrik Aktiengesellschaft AG ■
■ Deutsche Präzisions-Uhren-Fabrik Glashütte (DPUG)■
1890〜1904
1904〜1926
こちらは後々UROFA・UFAG、GUB、GOと続くグラスヒュッテの腕時計の基礎を築いた祖ともいうべきメーカーです。

設立はランゲの元で時計を作っていたErnst Kasiske氏で、ランゲから独立したのは1890年、社名はPräzisions-Uhrenfabrik Aktiengesellschaft AGといっていました。
1904年にはベルリンを中心に時計の卸売を始め、また戦争が近づいていた1913年にはグラスヒュッテで初めての腕時計の製造を始め、同社の主力製品としています。

WWI後、ライプツィヒに拠点を移し、Deutsche Präzisions-Uhren-Fabrik Glashütte (DPUG)と社名を変え、普及品を中心としたラインアップでの生産を行っていたようです。
1926年にはインフレの煽りを受け破産、以降、Kurtz博士の手によりUROFA、UFAGへと再編されます。

02/23/03
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■ Dürrstein & Company Dresden / Uhrenfabrik Union ■ 1874〜1926
現在、ウニオングラスヒュッテ(Union Glashütte I/SA)として名を残す、グラスヒュッテのかつての名ブランド、ウニオンはJohannesとFreidrichのDürrenstein兄弟によって時計商として1874年に設立されたのが始まりです。ランゲの唯一の代理店として時計を第二帝国に納入し、また、ランゲにはより安価なディフュージョンラインを製造するよう画策したり、なかなかに重要な位置づけにあったようです。

1879年にはDürrenstein & Comp. Dresdenとして会社組織となると同時に、Felsenburg、Monopol、Colombusからムーヴメントを購入、販売を始め、翌1880年からは一部スイス製、一部グラスヒュッテ製のUnion銘の時計を製造しはじめました。
時計会社としての歴史はここからにスタートしたことになりますね。
当時のムーヴメントに刻まれているトレードマークは、ベルとその周りの5つの星、その下にUnionのロゴ、となっており、Glocke Unionの愛称で知られています。

その後、1893年に社名をUhrenfabrik Unionと改称し、Union銘でDUF品質(当時のランゲの時計の品質のランクには、高い順からALS、DUF、OLIWの3つがあります)の時計を製造しはじめています。
腕時計のラインアップはなく、懐中のみだったようですが、男性用・女性用の時計だけでなく、ストップウォッチやトゥールビヨンまでもを含むコンプリケーションなども製造、ランゲに次ぐ実力を発揮していたようです。
特にUniversaluhrとして知られているものはミニッツリピーター、クロノグラフ、パーペチュアルカレンダー、グランソネリ、プチソネリを組み込んだコンプリケーションだったようです。見てみたいものですね。
 # ウニオンのサイトに紹介されています

1926年にはWWI後のハイパーインフレのあおりを受け製造を中止、33年には工場を閉鎖、36年に商標が消されるという寂しい結末を迎えています。

さて、この会社、設立のJohaness Dürrensteinのほか、製造責任者のJulius Bergter、開発担当のEmil Leutertという3人で成り立っていた部分が多く、現在のウニオンからは彼らの名前を冠した時計が限定モノとして発売されています。
2000年はJohaness Dürrenstein、2001年はJulius Bergterと、いずれも素敵な時計でしたが、次はきっとEmil Leutertの名を冠したシリーズでまた楽しませてくれるのだろうと期待しています。

01/24/03
08/29/04 加筆
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■ B. Junge & Söhne, Glashütte bei Dresden ■ 1881〜1897
Bernard Jungeはドレスデンの時計修理工で、いきさつはよくわかりませんが1881年にグラスヒュッテに工房を開きました。
基本的にはALS他と同等の高級ラインに属する時計を生産し、中にはコンプリケーションもあったようですが、ケースはスイス製のものを用いていたようです。
1897年頃には生産を中止したようです。

08/29/04
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■ A. Schneider Glashütte bei Dresden/Sachsen ■ 1851〜1878
Adolf SchneiderはAdolf Langeと共にドレスデンのGutkaesの元に学び、1851年、ランゲに続いてグラスヒュッテに工房を開きました。
Adolf Langeとは義理の兄弟ということで、このあたりはJulius Assmannと同じような関係にあったことが窺い知れます。
1845年のALSの創業には創業メンバーとして参加、その後51年に自分の工房を開いたようです。

彼の時計の特徴はアメリカ向け輸出が主だったこともあり、ニッケルメッキのプレートにダマスキン加工していることに尽きます。
半ば同属経営だったことを考えると欧州向けのALSとアスマン、アメリカ向けのSchneiderという棲み分けだったのかも、と思ったり思わなかったり、ですね。

08/29/04
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■ M. Grossmann Glashütte ■ 1854〜1885
ランゲ、アスマンに比べ数が少ないのであまり目立ちませんが、グロスマンは同時期に高品質な懐中を作っていた会社です。
 # 会社というか個人の工房といった方が近いかも。

グロスマンはランゲ、アスマンに続くグラスヒュッテで3つ目の工房で。1954年の設立です。
1826年生まれと若かったKarl Moritz Grossmannは工業高校の卒業後、ドレスデンのGutkäs時計学校で学び、その後2度の兵役を挟みながらハンブルグ、グラスヒュッテ(ランゲ)、ラ・ショー・ド・フォン、ロンドンなどで時計師として経験を積みました。

自社で生産していたものはダイアルにM. Grossmann Glashütteと記していますが、これ以外にM. Grossmann Dresden、System Langeといった銘のものが知られており、これらはランゲとの共同生産(というか下請け)により生産されていたようです。

1885年、彼の死亡とともに工房は閉じられました。

01/29/04
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■ J. Assmann/Glashütte i.SA ■ 1852〜1927
ランゲと並ぶグラスヒュッテの懐中の代表格、アスマンは1852年、アドルフ・ランゲの義理の兄弟に当たるJulius Assmannによって設立されました。基本的にはランゲのDUFクラスに匹敵する懐中を中心に生産していました。
1893年から97年の4年間は後にグリューン(グリュエン)を米国で立ち上げることになるFrederik Gruen氏が製造責任者を勤めていたことはグリューン(グリュエン)好きの方々にはよく知られていることかと思います。
 # グリューン(グリュエン)の歴史についてはこちらのページが詳しいです。

1897年にはDürrensteinで下積みし、ランゲで営業部長?を勤めたGeorge Heinrich氏が共同経営者になります。コテコテの人脈ですね。

操業停止は1927年で、DPUGやUnionと同じくアスマンもまたWWI後のハイパーインフレにより壊滅的な打撃を受けたかと思いきや、廃業の直接のキッカケは何と工場への落雷だったそうで、グラスヒュッテの最初の黄金時代であった懐中の時代においてその象徴的な存在ともいえたアスマンの、黄金時代の幕引きの象徴的な出来事だったともいえましょう。

現在、といっても3〜4年前のことになりますが、グラスヒュッテオリジナルからJulius Assmannの名を冠した限定モデルが2種、リリースされています。1つはGO初のトゥールビヨン、1つはマイセンの陶器をダイヤルに配したものですが、いずれもGOの限定モデルの中で特に人気があり、プレミアムがついているようです。
いかにJulius Assmannがグラスヒュッテのコミュニティで特別な存在かがわかろうかと思います。

02/15/03
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■ A. Lange b/ Dresden / A. Lange & Söhne Glashütte ■ 1845〜1948
カタログでも見て下さいって感じがしないでもないですが(笑
歴史編やムーヴメント編に色々な形でALSの話をご紹介していることもあり、ここではとりあえず重要な年代だけ書いておくにとどめます。
 1845:A. Lange, Dresden創業
 1868:A. Lange & Söhneに改称(Richardの入社)
 1868:ALSグレードの確立(1A/1B/1Cの標準化)
 1879:DUFグレードの確立
 1922:OLIWグレードの確立
 1924:Lange Uhr Glashütte i. Sa.の設立(腕時計部門の分社化)
 1945:ソ連軍のグラスヒュッテ占領と工場接収
 1948:西独にてOriginal Lange Uhren設立
 1948:旧ALSがLange VEBへ社名変更
 1951:Lange VEBがGUBに統合
 1990:Lange Uhren GmbHの設立

08/29/04
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■ グラスヒュッテについて ■  
グラスヒュッテはザクセンの南部、山を越えればボヘミアというような位置にある町で、かなり山深いところに位置します。ひとことでいうと寒村、といった感じで、見た感じはとてもドイツの時計産業の中心地だったとは思えません。

この地に時計産業を拓いたのはいうまでもなくランゲの創業者のアドルフ・ランゲですが、なぜこの地だったのか、ということについては、ザクセン州政府が州内の後進地域での産業振興・雇用促進策を募った際に、ランゲ氏がこの地で時計産業を、と提言したことによります。
この地域は12〜13世紀に隆盛を極めたドイツの銀鉱が枯れはじめてから開発され、銀鉱で名を成します。銀鉱としての最盛期は16世紀になりますが、その後地下資源が枯渇したり、戦争で荒廃したりで、18〜19世紀にはドイツでも最も貧しい地域に落ちぶれていたようで、そのためにこの地がザクセン州政府により産業振興が必要な地域のひとつに選ばれたということのようです。
その後、19世紀の富国強兵・殖産興業の政策の下では時計は重要な軍需産業として国の手厚い保護を受け、グラスヒュッテも時計産業の中心地として発展を遂げることとなりました。

町の紋章をみると上半分にハンマー、下半分に時計が描かれており、銀鉱山としての歴史と時計産業の町としての歴史が刻まれているのがわかりますね。
 # グラスヒュッテで購入したスティッカーをご覧ください。

現在の町の様子ですが、2002年の洪水で大打撃を受けた後、2003年10月にグラスヒュッテオリジナルとウニオンの新社屋が完成し、再生しつつあります。
新聞の切り抜きですみませんが、俯瞰図は

といった感じです。

01/19/04
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